『安達原』から『ADACHIGAHARA』へ~古典と現代を結ぶ

2022/01/26

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「はごろも」~銀座の飛翔~(2020年)

 中世以前に生まれた能と、現代を生きる私たち。その新しい繋がり方を探る試みが、能とクラシック音楽の最高峰の才能が集結したこのシリーズです。


 「安達原」は、陸奥の荒野に隠れ住む鬼女の物語。ある仏僧が旅の途中、安達原で日が暮れて宿を乞います。宿の主人である老婆は、うらぶれた一軒家での侘しい暮らしを嘆いています。夜更けになり老婆が薪を取りに出かけた折、僧が寝室を覗くと、そこには人間の死骸がうず高く積まれていました。
 鬼といってもこの鬼は、人を喰らわねば生きていけない浅ましい身の上を恥じる、物悲しい女性。
鬼女は、隠しても隠しても業が閨に積み上がってしまう人間というものの象徴のように思えます。腐臭を放つ死体の山は、我々が生きている限り日々、澱のように積もり続ける邪念や、過ぎ去った時への追慕を表しているのではないでしょうか。


 「安達原」には老婆が糸車を繰りながら、華やかだった昔を語って嘆く場面がありますが、クラシック音楽の世界で糸車といえば、思い浮かぶのがシューベルトの歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」。ゲーテの戯曲「ファウスト」のセリフが直接引用されているこの曲では、ファウストに恋する少女マルガレーテが、訪ねて来なくなってしまった彼に焦がれながら糸車を回しています。糸車の回転を表す伴奏のアルペジオが、彼女の堂々巡りの思考も表現しています。糸車が行き詰った思いを象徴するのは古今東西共通のようです。
「安達原」においては、糸車は時空の歪みを引き起こす装置でもあります。



「はごろも」~銀座の飛翔~(2020年)

 ソプラノとヴァイオリン、クラリネットが能世界の音と絡まり合う時、いつの時代も変わらない生きる哀しみが時空を超えて繋がります。この物語を現代のお客様に、新しい形でお届けできたらと考えています。


家田 淳
(演出家・翻訳家 洗足学園音楽大学准教授)